最後にじっくり、こんなゆるい話がしたかった①
改めまして、有吉かなこと申します。
(表裏ひっくり返しの服で、たそがれる私)
かくかくしかじか、私は現在今治市伯方島の地域おこし協力隊をしているわけなのですが、もうそろそろ任期の3年が終わろうとしています。
そして、
かくかくしかじか、私は4月からこの伯方島を離れ、フリーになろうとしています。
ここでのフリーとはただのフリーです。自由、無料、のフリー。
市役所では「ランス」をつけて体裁をギリ保っていますが、本当はフリーです。(分かったから)
3年前の4月に同じく協力隊になった同期の協力隊のみなさんが、定住!起業!結婚!などといった、この制度においても、彼ら自身の人生においても、華々しい成果をあげる中で、大変肩身が狭い私なのですが、
この島でやってきたことにはそれなりに自信があるし、この短い期間で大事な友人が沢山できたことはとても自慢です。
ちびっこからじいちゃんばあちゃんまで。
親戚でもないおじさんに、「いつかこの人のお葬式に来る日があるのだろうか」と思ったのは初めてのことでした。(めったな想像するな)
一時は真剣に移住を考えながら、せっかく色々と楽しくやらせていただいたので
こんな感じのゆるい雑談を交えながら、きちんと活動報告なるものをできればなぁ~と考えていたのですが、
・・・・はい、コロナウィルスです。
活動報告のイベント自体が無くなってしまいました・・・(吐血)
せめて何か文章にでも残したいので、
協力隊期間中、気が向くと更新していたこのブログの書き納めに、伯方島での私の話をしたいと思います。
題して
『自分の協力隊活動報告会で、有吉はこの話がしたかったシリーズ』
明らかに長くなりそうなので(すでにタイトルが長い)、3回くらいに分けてまとめたいと思います。
シリーズ①「協力隊は私がやりたかっとことだった!」の巻
一番、うざいチャプターかもしれないので、私のこういうところが嫌いな人は後日アップする②にスキップしてね。(そんな人はそもそも読まないのでは)
私は最初、定住や起業よりも、協力隊になりたかった人なので、改めて協力隊になる前の話からさせてください。
子どものころからある「よそもの」マインド
昔から自然が大好き。というか、田舎での生活に慣れています。
具体的にいうと、風呂場に巨大ムカデが現れたり、車の前をイノシシが爆走していたり、学校の校庭にサルが遊びに来たり、ご近所さんに野菜をもらったり、
一番都会と違うのは、濃厚かつ、時たまわずらわしいご近所づきあいが当たり前にあったことでした。
有吉家の場合、「静かで緑豊かなところに住みたい」と両親が、わざわざ田舎にマイホームを建てたわけなので、今考えたらあれも移住は移住で、両親はなるべく地域と馴染もうとよく頑張っていたと思います。
自治会で年に2回も旅行がある地域とか、今考えると超めんどくさいもん!
だから、私にとっては東吾野はホームタウンなんですが、代々あの地域に住んでいた人たちにとって、私は「よそから引っ越してきたうちの子」で、しょっちゅう「どこんちの子?」と聞かれては
「何年前に越してきた」、とか「あそこの茶色い家」だ、とか説明していました。(セキュリティ最弱)
そう考えると、うちは昔からずーっと移住者だったんだな、と伯方島に来てから気づいたのです。新参者として扱われることや、地域の中で少し浮いてしまうことに全く違和感や抵抗がないのは、自分の出自に由来するということか~と少し納得したものです。
この仕事には向いている性質かも。
「東吾野村を復活させよう」と息巻いていた中学時代
地域おこし協力隊という制度を知ったとき、やってみたいと思った一番の動機は、ただ、アートで何かしたいなー、のんびりしたところに住みたいなー、ではなかったような気がします。
埼玉県という、一般的に東京に近い好立地とされ、かつては林業で栄えた地域でありながら、完全に取り残された私の地元のようなエリアは、「国産の木も売れなくなって、林業家も減って、あとは人口が減っていくだけ」という悲観的なムードがそこはかとなく漂っていて、私はその空気に包まれながら育ちました。
でも子どもだった私にとって、
山奥に秘密基地を作ったり、家の前に寝袋を出して流星群をみたり、
6月のムシムシした夜に蛍を観に外へ出たり、
夏の部活帰りに「ねえ、あとは帰るだけだし川に入っちゃおうよ」って体操着のまま川に飛び込んだり、
思い出がいっぱいの特別な場所だったので、目に見えて分かる子どもの減りようを実感しながら、そこのギャップに「こんなにいいのに、なんで?」と常々考えさせられていたのです。
それで、中学生のころに「東吾野〈村〉構想」の提唱者になりました。笑
この地域は、市の中心地から離れすぎて、市政から置いてけぼりにされている上、市内の他のエリアとは全く別ものの個性や特徴があるのに、そこを誰もアピールできていない!これは飯能市という大きな枠のパーツになってしまっているからや!村時代に戻して独自性をもっと出して、ちゃんと中で循環できる自治制度を作ろう!!などという主張を、威勢よく言っていたのを私の友達は無理やり聞かされていました。(めちゃめちゃ気の毒)
基本、私の周りの人間は遠慮がないので「こんな人が少ない地域で財政まわらないでしょ~に」と言われて、しゅんとなったものの、私が言いたかったのって、要するに地域のブランディングのことだったような気がします。(それがいきなり「村構想」になる無茶っぷり・・・愛せる)
なんとか頑張れば、お隣の秩父市みたいに色んなコンテンツが作れそうだし、子ども少なすぎて「友達ができない」で悩んでいる都会の子とかも一瞬で友達できると思うし(幼稚園時代の友達をうちの母が本当に誘ったことがある)、通勤が大変ではあるけど仕事を変えずに田舎暮らしもできなくはない、などなど、アイデアはあれど、
中学生の私には、じゃあどうすればいいの?の手持ちカードが何も無かったのでした。
だいたい、そんな話を相手にしてくれるのは両親だけで(私に激甘)、結局私は何もできずに、いつの間にか過疎化の当たり前に慣れて、
3.11の後、2011年の夏に家族で四国・徳島県に移住することになってしまったのです。
私が小学生だったころ、全校児童70人くらいだった東吾野小学校は、年々児童が減り、昨年度で閉校になりました。
そのニュースを聞いたとき、ちょっとだけ涙がでました。
徳島への移住。はじめての四国暮らし。
東日本大震災後に、両親が西日本への移住を考え始めました。
普通、高校生の娘というのは、少しくらい慣れ親しんだ土地や交友関係と離れることに抵抗感を感じてもいいものですが、案外あっさりと受け入れ、案外前向きに次の高校を探したりしていました。
うちの両親は原発事故後に、うちのお店のインド人従業員を国に帰して、私にマスクをするように口酸っぱくして言っていたし、口にするものもデリケートに選んでいました。
高校生だった私からしても、震災後の政治の動きは、理解しがたいものがあって、計画停電で真っ暗の電車に揺られ、真っ暗の家に帰る日々の中で、被災地に何ができるわけでもなく、ストレスフルな日々を送っていました。
そんなときに、高校の友達に「いつもマスクしてて怖いし、なんか気持ちわるいよ」と剛速球ストレートで正面から投げつけられ、心が1ミリ角に粉砕された事件がありました。自分的にももう限界がきていたような気がします。
(今でも結構トラウマになっていますが、後日その友達も「やっぱりおかしいこと多いね、私も有吉に言われて色々気づいた」と言ってくれたのでした)
まあ、そんなこんなで、私たち家族は「この震災をきっかけに自分たちの食や生き方を見直す」というテーマを掲げ、移住先を探し始めたのですが、私の受け入れ先の高校がなかなか見つからない。
埼玉では、芸術科しかない高校に通っていたので、せめて美術科クラスのある高校に転入したい!と言っていたのですが、どこも人を増やすのは難しいと断られ続けました。「もう大学に進学するつもりもないし、高校やめて野菜作りを手伝ってもいい」と言ったのですが、さすがのうちの親も「せめて高校は・・・」とあきらめませんでした。(親があきらめなくてよかった!!!!泣)
そんな中、ようやく「歓迎しますよ」と言ってくれた高校が徳島県の名西高校の芸術科で、私たちは徳島県に移住先を絞って、高校まで通える家を探し、すごいスピードで阿波市市場町に移住しました。
移住当初、近所の人が、「徳島はなんでも5年は遅れとる。バブルがはじけたあとも、5年は景気がよかった」と言っていたので、「そんなバナナ」と笑っていたのですが、
私が名西高校に転入したとき、クラスのギャルが、教室で真剣にパラパラを踊っていたので、「これは5年どころの騒ぎではない・・・」と震えたのを思い出します。
(後に、ギャルの圧力に屈服した私は、はじめての文化祭で踊るはめになりました)
正直に言うと、徳島での私は、本当に生意気で嫌な奴でした。
埼玉の高校では絵も勉強も普通かイマイチだった私が、徳島の高校では1番をとることも多くなり、天狗になるわ、先生に口出しするわで、もう今振り返っても、土下座!!!って感じです。
埼玉ではあんな田舎に住んでいたくせに、「東京からきた有吉さん」と間違って紹介されても訂正しないぐらい調子にのっていたのです。(死んで詫びろ)
そんないけ好かない奴でありながら友達には恵まれ、とくに、同じ油絵専攻のメンバーには本当に仲良くしてもらいました。銀杏BOYZのCDを貸してくれたり、みうらじゅんの話を聞いてくれたり、フジファブリックの「銀河」ダンスを文化祭で踊ったり、もともとあったサブカルな輪の中に私を入れてくれて、とても優しくしてもらったのです。
私って意外とこういうの好きかも???
3年生の文化祭で、私が文化祭リーダーとして、クラスのダンスを考える機会がありました。前の高校でもダンスの振り付けと構成を考えたことがあったので、少し自信があったのですが、高校生なりの波乱、混乱もあり、E判定まみれの大学入試を控えて、「なんでやるとか言ったんだろう・・・・」と号泣しながら準備をしたのですが、
結果的に、「カオナシが『ラブレボリューション21』を一心不乱に踊る」というメチャクチャな企画で、全クラスの中ではじめて我々が優勝することができたのです!
今思い出しても笑顔がこぼれるいい思い出です。(まじで優しい周りのおかげだからな、忘れるなよ!)
てな感じで、毎回周りを巻き込んだ挙句、半泣きになって、キレたりしながら、最後は「なんだかんだうまくいってるやん??」というところまで持っていくギリギリセーフのスタイルは協力隊になっても全く同じで、
役場で
「なんでやるって言っちゃったんだーーー!だれだ最初に言ったやつーーー!私だーーー!」と嘆いていると、
「毎回言ってるよねそれ・・・」と周りの人にさめざめ言われる始末です。
私の危なっかしい協力隊活動の源流は学生時代にあり、と、最近しみじみ思いますねー。(全然いい話じゃない)
この高校生活でよかったことは、「私、なんだかんだでプロデュース役が好きかも」っていうことと、「人間、どこの土地に行ってもなんとかやれる」という最大の学びを得たことです。埼玉にずーっといたら、協力隊なんて怖くてできなかったかもしれません。
徳島でのピチピチJK時代
憧れだった京都での大学時代
私は昔から、ノーアイデンティティな埼玉の自虐根性を忌み嫌い、
プライドとセンスと文化的空気で、そこに暮らす人々をワングレード上品に見せてしまう京都というまちに大変な憧れと執着を持っていた人間でした。
私にとって、京都は、たとえそこにゴミ山があろうとも、何か文化的意図があるのではないか?と感じさせる魔力を秘めし場所でした。(すごいバカ)
ということで、人生で一番辛かったのではないかという芸大受験期を経て、憧れの京都芸大、憧れのまちでの一人暮らしがはじまりました。
うちの両親は、移住してから、経済的にかなり厳しくなっていたのに、私のひとり暮らしのための家電一式に加え、「芸大に行くんだから」と無理をしてMacBookを買ってくれました。(私はこのPCを7年間使い、つい最近、自分で新しいものを買いました)
一足先に帰った父とは別に、うちで引っ越しの荷解きを手伝ってくれて一泊した母が、翌朝、新品の布団の中で子どもみたいにしくしく泣いているのを見て、ようやく自分の巣立ちを感じたのが懐かしいです。
私が通っていた京都市立芸術大学は、私が理想としていた京都的情緒さえない立地でしたが、大学の裏手には自然も多く、学内にも気持ちのいい雑木林があるような場所でした。学生が「つちのいえ」というゼミで制作した茅葺き屋根と土壁のかわいい家があって、その周りの丘も段々畑にして、芋を育てて、みんなで焼き芋にして食べたり・・・。思っていた京都での学生生活とは少し違ったけれど、私の性に合う気がして、どんどん好きになりました。
基本的には変な大学だったので、いつまでたっても就職しないで大学に来ている先輩とか、勝手に学内のベンチで編み物をしている謎のおじさんとか、その人の作ったというチャーハンを平気で食べている友だちとか・・・
どうなってんねん、みたいなことばっかりで、私みたいな人間には本当に気楽な世界でした。ザ・ダイバーシティ。
その自由のよさに比べれば、京都の伝統的文化とかハイセンスな雰囲気とか、結構どうでもよくなってきて、高校生の時にネチネチこだわってきた「自分流」みたいなものも、いい感じにほどけていった感じがします。
就職はしたいけど、就活はしたくない期
就活期間が始まっても「リクルートスーツを着たくない」という理由を盾に、一切就職活動をしなかった私に、親も友達も誰も何とも言わなかったのはすごいことですが、大学院に進むと思って放置していた人もいたみたいです。
就活の波には乗れなかったけど、この先何しようか・・・と思っていた矢先、「地域おこし協力隊」の存在を知って、愛媛の協力隊合同説明会に参加しました。
正直、私は当時のアルバイト(福祉グループホームの世話人)で多い月には15万円近く稼いでいたので、卒業後にフルで働いたら20万は余裕だよな~とぼやいていたのですが、ネットで地域おこし協力隊という制度を知ったときに、不思議とピンとくるものがあって、「こういうの向いているかもなぁ、面白そうだなぁ」と思ったのでした。
前のブログにも書いていたかもしれませんが、私は小さいときから高校生まで、少女漫画家になることが一番の夢だったので、その夢を諦めた後は、「もうなんだって楽しかったらいい」という余生マインドで生きていました。
つまりは、「いいところで暮らして、自分らしくいれるところに行きたいなぁ」と感じていたので、地域おこし協力隊制度はそういうものだと解釈したのでした。
それに加え、地方の地域力の衰えに対して何かできないか?面白いアイデアを出せないか?という十代のころからのぼんやりとした妄想がつながって、私の足は地域おこし協力隊に向いていきました。
②「いざ、今治市へ!」に続く・・・