5ヶ月間の生温かいデザインたち(震え声)
地域おこし協力隊になって5ヶ月が経とうとしています。
地域活動やイベントのお手伝いに始まり、版画のワークショップなどもさせてもらっていますが、こんな風に、チラシ、ポスター、マップ、ポロシャツなど、デザインをさせていただく機会が増え、とても嬉しいです。
正直、自分のしごとに全然自信が持てないので、もっとイラレやフォトショ、デザイン全般勉強しておけばよかったのになーと嘆くことがしばしばです。
「デザインをしてます」と言うたびに肝心の「デザイン」の部分が震えます。
「私が作ったんです」とは言えるのに・・・(何があった)
もっと使えないのは「アート好きです」「アートやってました」なんですけどね(笑)
芸大の闇は深いです・・・。
この前、支所の人から「いらないからー」と高そうなデザインの本をいただき、感謝感激です。(伯方島ってAdobeソフト使える人が結構たくさんいるんですよね。教えてもらいたいです〜)
今後は、協力隊との兼業で、地域の商品パッケージやラベルのデ、デザイン(震え声)なんかも有料でお受けしますので、ぜひ宜しくお願いします。
わたくし、今後も精進いたしますので、どうか生温かい目で見守ってくださいませ。
以下、5ヶ月間の作品記録(ちょっと少ないですが・・・)⇩
「しまパサール」一番最近のはこれです。
私もアクセサリーで店出すのでぜひ遊びに来てください。
5月・6月に苦悩した夏まつりポロシャツ。苦悩が伝わっていないようでよかった。さらりと作りました、さらりと。(嘘)
いろいろと記念すべきイベントになったハナレコジマです。
グリアンの島女子ワークショップ。データ重すぎてスクショをトリミングしました〜・・・とほほ。
この辺は4月に児童館からお願いされたもの。純粋に楽しいのはこういうのです(笑)
4月に歩き回って作った開山マップ。正直作り直したい気持ちしかない。
来年の桜までになんとか・・・
地域おこし協力隊に大学生が応募してしまった人。(チーン)
このブログを始めたおかげで、今まで知り合いだった人、そうでなかった人、多種多様なたくさんの人から声をかけてもらえるようになりました。ありがたや〜〜。私たち、バブル崩壊後の暗い日本しか知らない世代だとちまたで言われてますけど、リュックみたいな携帯電話を持ち運ぶ時代じゃなくてよかったと思います〜〜〜(イメージが雑)。私のような凡人にしてみたらシンプルに楽しいですからね。ネット社会。(ゆとりっぽいなー)
今日は、最近辛いな〜と思っていることを書きます。私自信が辛いわけじゃないのでご了承ください。(それを期待していた人はゲッタウトヒアー!!!!)
このブログをノリノリで始めた時に、協力隊とか移住者の面白いブロガーさんがいないかな〜と漁っていて、たまたまこんな記事を見つけました。
おおう・・・・こう来たか。(冷汗)
「少しデザインができる」、みたいな言及があり、
「この人、まさか私のことを知っているのか!!???」といういつもの自意識過剰を発揮しつつも、恐る恐る読ませてもらいました(笑)
おっしゃることは普通のことなのですが、私は「その通りだ」と頷けない状況です。(皮肉でなく、もうすでに今協力隊なので!笑)
私は人から「考えが甘い」と言われても反論できないことを大いに自覚して生きてきました。
「そうです。私は昔から考えの甘い人間なんです。楽譜が読めないのに校歌の伴奏に挑戦してみんなの前で大恥をかいたり、スマッシュが決まった!と勝手に思い込んで全力でガッツポーズしたら打ち返されて試合に負けたり、口の軽い友達に恋心を打ち明けて大惨事になったり、かなりヤバい臭いを放つ鶏肉を一か八かで食べて案の定、翌日胃液を吐き続けたり。22年間、自分の考えの甘さで損をしたことを数え始めたら日付がかわりますよ!」と堂々と言えます。(堂々と言うな)
でも、そのゆるい楽天的な考え方のおかげで得たラッキーだってあるのですから、私は今後も気の向くままに陽当たりのいい場所に座っておしゃべりを続けていたいのです。性格だから仕方がない。
だから、もう今更キャリアとかあまり気にしていないので、この記事にはシンプルに納得できません。まあ要は「(堅実な考え方の)大学生にはオススメしません」ということです。
(そもそも私の場合、小学生時代の人生計画である「若干15歳で月刊漫画雑誌ちゃおで鮮烈デビュー後、ドラマ化、映画化、社会現象化、原作者のありよしかなこ(←あらいきよこを意識している)は超有名人に!」という一連の流れは、16歳の誕生日をもってオールリセットされてしまったので、闇時代以降の私の人生なんてすでに余生ですし。)(どうでもよすぎてやばい)
あと、会社に入ると、会社が気にかけてくれて、教育をしてくれて、ノウハウを学べるという話がありますが、私はここがかなりクエスチョンマークです。これは今の時代的に「?」ってことですかね。
「ブラック企業」とか「社畜」とかいう言葉は、私たちの世代ではすでにネタ的に扱われていて、私も大学を出る前はちょっと連日バイトするだけで「ブラックだわ〜」なんて言ってたようなタイプなんですが、最近、笑えないくらい生々しい日本の労働について親友の口から聞かされて、言葉が出ません。
12時間労働は当たり前、理不尽な小さな事で周りにイライラされて、会社の上の人間は親会社からの天下りなので人材を育てようとしない、何かトラブルが起きれば犯人探しが始まり、誰かが仕事で追い詰められていても全員が余裕がないので知らん顔。
なかなかひどいと思いませんか・・・
昨日、幼馴染の親友からLINEが入ったので見てみると、なんだか憔悴しきっていて、「やめたいやめたい」音頭。胸が痛くなりました。(彼女、昔から出木杉くんの女バージョンみたいに切れ者なのに)私たちが子供の頃に夢見ていた大人って、こんなことだったんか・・・。
こういう話をすると、「世の中だいたいどこもそんなもん」とか「それでも働かなくちゃ食ってけない」とか、「俺たちの若い頃はもっと働いてた」とか言う人がいるのですっごい嫌なのですが、
「みんなそうだからしょうがない」事をスタンダードにしちゃダメでしょ!?と思うのです。誰かがトイレで泣いていても気に留めないような社会が「社会」なら私は社会人なんて言われたくないし、一生「子どもだね」と言われながらババアになっても構いませんよ。
家に帰って、もやしを湯がいて食べる日々に見つけた彼女の唯一の楽しみは、靴下とかパンツとかを干すパチパチに、やじろべえ的にバランス良く洗濯物をつるす事だといいます・・・・。22歳だよ22歳!!ボケ老人じゃないんだから!!!世も末だ!!!!(言葉に気をつけませう)
と、無許可にこの事をブログに書いてしまったので後で怒られるかもしれないけど、要するにいいたいのは、会社で働いていても、地域おこし協力隊していても、どっちもそれぞれの苦労があって、どっちも大変で、どっちを選ぼうが自由でしょ!ってことです。これからぶち当たるであろう壁があるのも承知だし、今までだってのたうち回るくらい辛い思いをしましたよ。(主に創作活動でw)
協力隊を応募する前にこのブログの記事読んでいたとしても何も変わっていなかっただろう、とは言いつつも、ここ数日、この話が気になっていて、「世間知らずに協力隊に応募してしまった人」代表として、何か記事にしたいな〜と思いました。
自分が考える脳で、手足を動かして前に進む事を、「3年は会社で働いたほうがいい」とか「転職すると不利」とか、ぼんやりとした古い一般論に個人の生き方を邪魔される必要があるんでしょうか。右肩下がりの平成生まれだからこそ、高度経済成長期やバブルには無かった新しい価値観や生き方の指針があってもいいと思うのですが。それぞれの考えがあって、それぞれの生き方があって、それが楽しくて幸せならいいな〜というところですかね。偉そうに、と思われたら嫌だけど、率直な感想です。
とはいえ、こうしてブログにゴニョゴニョ吐き出しているだけでは何も変わらないので、活動を通して、「私、いつも考えが甘いけど元気にやってるよ〜〜〜!!!!」と伝えていくほうがいいですね。やっぱり。
この前のイノシシカレーの事が少しだけ愛媛新聞に載って、「新聞にでとったね、カレーのこと!」と声をかけてくれる人がいました。ブログの言葉だけじゃなく、こんな風に私の活動を伝えていけたらいいな〜と最近すごく思います。
やっぱり大学生から協力隊なった人はダメだったと言われないように、自分のペースで前に進んでいきます。
大好きな「この世界の片隅に」の中に、
「この世界に居場所はそうそう無うなりゃせんよ」という言葉があって、私はいつも勇気付けられています。
親友にもこれを教えてあげよう。
と思う金曜日の夜なのでした・・・・
「バイブス」という言葉の意味を僕たちはまだ知らない。
徳島から帰ってきました。
今朝、鳴門金時パイを携えて出勤すると「ゆっくりできた?」と皆んなが笑顔で聞いてくださる優しい世界。
東京で働く友達の話を聞いていると、社会人1年目が夏休みを気持ちよくもらえるなんて当たり前のようで当たり前じゃない。助かります。
帰省中、お父さんと、徳島県の貞光にある上田屋の音楽ライブに行ってきました。禅興寺ライブや汐待亭ライブから始まって、生音楽はやっぱり超いい!という、しごく当たり前の事に気付いた最近の私は、こういう音楽イベントが大好きになっています。
今回は「光風×Koutang」のツアー初日ということで、当たり前のように知らない人のライブに勇んで飛び込みました。(私が知らないだけですよ)
光風さんの声は力強くて切なげで、少しハスキーで、こういう声に生まれてきた人が、歌を歌うべきだと気づく瞬間はどんな時なんだろう?と思いながら、天性の声と音楽のマッチング素晴らしいな、と思って聞き入りました。
しかし、会場内のターバン・草木染めスカーフ・タイパン・ダイダイ柄ワンピース率の高さ。私はこれを密かに移住者ルックと呼んでいるのですが、あの服装の人たちは、往々にして人柄が良く、ラブ&ピースで、子沢山で、ある葉っぱを育てていそうな雰囲気で(失礼)、顔も似ているので、私はもともと同じ人種というか同じルーツを持った人たちが、地方に再集結しているのではないかと勝手に妄想しています。徳島の移住者は、こっちの方たちとはまた違った濃ゆさがあって面白いですね・・・人間観察がはかどります。
で、やはりすごくノリがいい会場で、最高潮に達したラストは意味も知らないのに「バイブス高い」とちょっと声が出ました。恥ずかしい・・・。バイブスとかいう人間になったのか私・・・・。
そういった多少のジレンマはあるものの、音楽好きな父も、そこそこ好きな私もノリノリな夜でした。彼らの四国ツアーは28日までで、最終日は土佐清水らしいので、行ける方は是非。とても良い音楽ですよ〜
個人的に、谷川俊太郎の「朝」に曲をつけたやつが最高でした。聴いたら絶対うるむ曲1位は高田渡の「ブラザー軒」ですけど、光風さんもいい勝負です。(お前何様)
島では、買い物でお金を使うことがあんまりないので、最近はカルチャーにお金を使いたい欲がモリモリ湧いてきます。形をとどめないものって、一番の贅沢ですよね〜。
引き続き、9月のハズミズム2017では大好きな鎮座ドープネスが拝めるそうなので、隠れB-girlの私もとりあえずChill outですわ。(にわか臭すごいな)
イベント初出店&完売御礼。
朝バナナダイエット、ウォーキング、ひとこと日記をはじめとする、自分史に燦然ときらめく3日限定の幻たち。
前回の記事から早くも数日経ち、怪しげにちらついた「3日坊主」疑惑ですが、大丈夫、ちょっと忙しかっただけです。(つたう汗...)
そう、19日土曜日は、大島で開催された「ハナレコジマfestival」に初出店!地元の友人曰く「もはやイノシシ」の私が作ったイノシシキーマカレーを販売しました。大量の玉ねぎをじっくり炒めて、イノシシ肉とスパイスで煮込んだカレーはグルテンフリーだけど、とろみがあって美味しいです。地元の野菜をレモンで和えたさっぱりのアチャールと、プラス100円でスパイスに漬けた平飼いの半熟卵も付く一皿でした。夕方のライブまでになんとか完売してホッと一息。自分で作って自分で販売するのはこれが初めてで、1ヶ月前からソワソワしてましたが、家に忘れ物することなく(これ大事)、順調に行きました。反省点もあるものの、父曰く「まずやってみたことが大事」とのこと。その言葉を信じて次回につなげたいものです。
今、夏季休暇いただいて実家に帰省中なのですが、唯一、「何、シマサラって、どういう意味、ピンとこない」という、一番恥ずかしいところをチクチクしてくる両親がいます・・・。だいたいね、ベンガル人のコックしかいない店を「ジャイプール」と名付けたあんたに言われたくないよ父さん。私は小さいころ、友達に家が「プール」だと思われてたんだから・・・
とにもかくにも、素敵な音楽ライブで幕閉めしたハナレコジマfestival、暑い中でしたが、大変楽しかったです。私の活動の中の貴重な一歩。カレーを食べてくださった皆さんには感謝しかありません!今後も頑張ります!
あと、今回のハナレコジマfestivalでは、山村エンタープライズさんからフライヤーの原画を依頼していただいて、木版画で夏フェスらしいゆるい絵を作らせてもらいました。
版画楽しいですよね。(改めて)
大学の時は、すり刷毛とバレンは共有のを使っていたのですが、今は、染色用の刷り込み刷毛と、300円くらいで売ってる安いバレンで制作してます。
もう辛すぎて、いい加減買おうと思っているんですが、すり刷毛は小さいのでも一個3000円〜で、私の愛用していたコロコロバレン(ダサい名前)に至っては一個2万円近くするんです。
和紙もまとめて買おうかななんて思っているともう地獄ですわ・・・ははは。
でも仕事に使うものなので、きちんといいもの揃えなきゃですね。頑張ります。
今の今になって、
「有吉、お前みたいなもんは医者と結婚しろ、医者と。」
と言ってきた高校の担任を思い出します。あと昔行った街コンで「パトロンになってあげようか」と言ってきた気持ち悪いおじさんも思い出します。
思い出したところでどっちも嫌なので、自分で貯金して買いますけどね(笑)
しかし実家(親も移住しているので全然知らない家ですけど)で両親に近況報告していると、私がやりたいことがまとまってくるような気がするので不思議です。人に説明するって大事なことだなって思いますね。ブログもそういう効果があるんじゃないかなと期待してます。
実を言うと、うちの親はここんとこ別居中で、一家全員1人暮らしという、孤独でフリーな共同体なので、3人+猫がたまに集まると、意見交換会って感じで盛り上がります。猫のくろべいも目で語ります。(夏毛のこととか、犬不在の生活のこととか)
どちらにせよ、私がやること決めることには、「いいね」「面白いね」と言ってくれる親には感謝ですね、、、
8月も下旬に向かいますが、まだまだ暑い日が続きます。
秋と冬が好きな私も、島に来てから、夏もいいな〜と思えるようになった気がします。当面は、「暑い!」「寒い!」の2択みたいな感覚を捨てて、もっと季節に敏感に暮らすことがテーマですかね。
「もはやイノシシ」って・・・
こんばんは!ついに地元の友達から「もはやイノシシ」と呼ばれ始めた有吉です。
地元にもイノシシは結構いるのですが、家庭で食べるという習慣がほとんどなく、やっぱり敬遠されがちな食材です(むしろ食材という概念がない)。
自分で言うのも何ですが、私は食に関しては結構、冒険家気質で、何でもトライ&エラーの傾向。好き嫌いはありません。島に来てからは、イノシシ、キジ、貝類、海藻、そうめんかぼちゃなどなど、初めて食べるものがいっぱいで、楽しくて、海原雄山ばりに食卓で味の批評をしている毎日です。
料理が好きなので、島の人たちのイノシシ肉への苦手意識改善のためにレシピ本を作りたいな〜、とか思っているのですが、まだまだ長い研究や聞き込みが必要そうですね。
そんな感じで、1日1回はイノシシ関連ワードを発している私ですが、今週末8月19日(土)吉海町のバラ公園のイベントで「島イノシシのキーマカレー」を販売します。どうなるかしら・・・
その件で聞きたいことがあって昨日父親に電話したら、
突然、
「やっぱりお盆だからだろうか・・・僕ねえ、夜中の3時にぱちっと目が覚めて『ターリーを作らなきゃ!』ってピーンときたんだよ。死んだお父ちゃんが『ターリーを作れ』って言ってる」
(*ターリーとは、豪勢にいろいろな種類のカレーやおかずが乗ったプレートのこと)
という、おかしなことを言い始めて、「そろそろ実家に帰ろうかな」と思いましたさすがに。ターリーを作れ、の予言ってなんだよ。お盆関係ないだろ・・・
まあそんな話はどうでもよくて、インド人が決して食べないであろう、不浄のイノシシカレーがうまくいったら、またイベントとかでも使えるし楽しいかな〜と思っています。
支所でも試食会をして好評を博したカレーですので、是非是非!
飼育舎で餌を与えられてブクブク太ったお肉もいいですが、ワイルドに島を駆け回るイノシシ肉は夏バテにいいこと間違い無し!!!(のはずです。)
ある協力隊が、「島に来てから10キロ太ったよ」と話していましたが、これはやばい気しかしません。美味しいものが多すぎるし、もらいものも多すぎる・・・・
ああああああああああ This is Heaven!!!!
この日、思い出すこと。
こんにちは!
初回の記事から、結構たくさんの人に読んでもらえたみたいで感激です。
こりずに、今後もぜひお願い島ス!(でた)
さて、お盆真っ只中の今日は終戦記念日。
伯方の役場でも、黙祷をしました。
(写真は、2003年?日比谷公園のイラク戦争反対デモで、明らかにカモでしかない「平和のハト」の絵を持つ、思想が強い小3の私です。また何か食べてます。)
そういえば、この前の土曜日に、生口島の瀬戸田映画祭にフラッと出かけてきたんですが、その日は「瀬戸内少年野球団」の上映で、映画のオープニングは、1945年8月15日の玉音放送のシーンからでした。(あの映画、オープニングがいいですね)
私の場合、毎年、この日には母方の祖父のことを思い出しています。私が中学2年生の時に亡くなった、こさじいさん。
太平洋戦争で、パプアニューギニアに出兵して、3年間の捕虜生活の後に日本に帰ってきた人です。私の世代になると、じいさん世代が戦争体験者(当時青年だった)という人はなかなかいなかったので、私は祖父のパプアでの話とか、先住民族の歌とか、そういうのが好きでした。陸軍少尉だったこさじいにとって、あの異国の地での戦争を生き延びたことは自らの武勇伝であると同時に、その後の人生にこびりついて、こすってもこすっても取れないような強烈な体験だったのだろうと思います。
こさじいが、私が生まれる年にワープロで書いた「おじいさん一代記」という、ナイスなネーミングセンスの自伝のほとんどは、太平洋戦争での戦歴でした。
「捕虜生活を終えて、日本に帰国する船の中で、恋しい我が家を思い出していたら、みんなの顔が思い浮かんだのに、唯一、末の弟の顔が出てこなくて、「もしかしたら」と思ったら、やはり戦死していた。」という話があって、そこが妙に生々しく、悲しい部分だなあ、と思いました。(母の実家には、お盆になるとりゅうろうさんという十代の青年の遺影が飾られますが、それが彼です)
「徴兵の知らせが来た時は、これで自分もお国のために戦える!と嬉しかった」という、軍国主義教育のテンプレートのような少年時代を送り、戦線と戦後を経験したこさじいから、私が直接聞けなかった部分を想像しています。
面白おかしく話す、その口や目の端々に何か隠されたものがあったのではないかと、私は未だに考えたり、怯えたりして。
よく悪夢を見る人で、一度、強盗に襲われる夢を見て、喉元に迫る相手の手首を全身全霊で握って激しく抵抗し、夢から目覚めると、自分の左手首に紫色の手形のあざがついていたという事件がありました。
当時は、うちのおじいちゃんはおかしい!と笑っていましたが、私は、きっとこれもこびりついて剥がれない物の一つだったのではないかと今、なんとなく思ったりします。
私が引き継いだ戦争のリアルなんて、たったこれっぽっちのことですが、せめて8月15日の今日は、こんなこれっぽっちを思い出して眠りにつきます。
この国に、二度と戦争が起きませんように・・・。
今日は地域おこし協力隊の仕事とか活動の話とか面白おかしくしてみようかなと思ってたんですが、年に1回はこの話がしたい私なのです。笑
退屈を許してください。
伯方島の歴史公園から見下ろす、木浦港沖。
1945年11月には、ここで第十東予丸転覆事故が起きて、397人の人が亡くなったと聞きました。船は、尾道から今治へ向かう旅客船で、乗客の多くは済州島からの復員兵だったそうです。
正午の黙祷の時、故郷を目前にして海に沈んでいった東予丸のことも、思い出していました。
いまさらすぎる自己紹介。(協力隊になるまでの話)
はじめまして。愛媛県今治市伯方島地域おこし協力隊の有吉かな子です。
京都芸大を卒業後、「地域おこし協力隊」という口にするのがちょっと照れる仕事に着いて早くも4ヶ月。友達や親戚ですら、私がどこで何をしてご飯を食べているのか知らないみたいなので、この謎多き私の仕事と、島での生活のことを気が向いたときに書いてみようと思います。
ブログは昔からずっと書いています。
中学1年生からかな、、、(キャー現代っ子!)
なんじゃかんじゃで大学卒業までやっていたので、それはそれは黒歴史たっぷりの目をふさぎたくなるような青春のアーカイブ。
アメブロ時代は、「このブログを私が死ぬまで書きつづけたらすごいなー」とか思っていたわけなんですが、もう今の私には、黒歴史の特大泥団子を引きずり歩く若さはありません。もういい加減大人ですので。
せっかくはじめての投稿なので、ここで少し自己紹介をば。(長くなる予感しかないので逃げるなら今のうちです・・・)
生まれは埼玉県狭山市で、5歳のとき飯能市の東吾野(ひがしあがの)に引越し。両親がインド料理屋をやっていたおかげで、「カレー屋の娘」という強烈なアイデンティティとともに、すくすく育ちました。吾野地域は昔から「西川材」という良質な杉・ヒノキを江戸まで運んだことで有名で、クラスメイト10人のうち、3、4人は山を持っている家の子、半数以上が例年酷い花粉症に苦しめられていたという、うーん、いたってほのぼのとした緑豊かな田舎です。
数学とマラソンのない高校に進学しようと決めていた私は、美術科高校に入って、意外とスポコンな美術三昧の日々を送りました。
2011年3月の東日本大震災を機に、一家で徳島県阿波市へ移住。
高校も転校して、1年半徳島の田舎で過ごしました。
この頃は岡本太郎の本を読みあさったり、肉断ちをしたり、漫画を描いたり、UFOを見たり、ニキビの詩を書いたり、山に入って瞑想したり、完全にまともじゃなかったので、私はこの時代をまとめて「闇」と呼んでいます。
小学生のときは勉強が嫌いすぎて、中卒を宣言していた私も、まともに勉強をして大学に入りました。
(大学時代の私↑木版画してました)
入ったばかりの頃の芸大は、夢みたいに楽しくて、のぼせ気分に思わず正気を失い、「闇」時代には考えられなかったラグビー部のマネージャーに。
のちに、芸大祭に来たリリーフランキーに「君、ラグビー部のマネージャー?・・・なんで?」 と言わせしめた人生の謎の選択、堂々第1位がこれです。
まあ、でもこの大学の4年間は「闇」とのコントラストで、全てがまばゆかった。ラグビー部の仲間も面白くて大好きだったし、
汚い廊下で寝たり、深夜3時の制作室で鍋したり、飲み会中に警察が来たり、卒業式でフリーダ・カーロの仮装したり・・・。もう今やったら許されないことばかりして騒いでいたなあ。香ばしい。
就活もろくにせず、唯一行ったのは大阪であった「ゆる〜い会社説明会」というお酒を飲みながら参加するというやつで、こんな所にいの一番に来ている人間って大丈夫か?と半笑いでふたを開けてみたら、芸大の知り合いの多いこと・・・(笑)
そんな中で地域おこし協力隊になろうと思ったのは、「日本仕事百貨」か何かで見つけて(またそんな所で仕事を探す)、「ああ!この仕事なら、場所で選べるんだな」と気づいたことがきっかけでした。闇時代に読んだ「ニッポンの風景をつくりなおせ」という本を読んで以来、梅原真さんという高知のデザイナーのファンだったので、私でも「近所に住んでる田舎のデザイン屋さん」みたいなこと、できないかなあ?と思ったりもしつつ。
あとはやっぱり、自然が豊かなところに住んでいたいという気持ちが大きいです。
島に来てからは、人間以外の生について感動することが多くなりました。自然中心の時計の回り方に、人間があわせざるをえない感じ。たとえば、潮の満ち引きとか、裏年、表年みたいなものとか、イノシシの猛攻とか、どうにも出来ないものが沢山あって、それを肌で感じれる事が面白くて仕方ありません。
話は戻って、なんで、今、伯方島の協力隊になっているのかといえば、残念ながらとりわけ大きな理由はないのです。地図で見た伯方島の形とサイズが良かったです。あと、説明会で当時の支所長や現役の協力隊に薦めていただいたというのも。
「よくそれでここまで来たね」といわれたりしますが、後先深く考えない性格のおかげで、こうして今元気に島暮らしできていることが幸せです。これも確かにご縁ですよね。たとえば、小さな悩み事ができても、仕事帰りに、日が落ちかけている船折瀬戸の潮流を見れば「まーいいや」ってなれるような贅沢。そんな時間をかみしめて、22歳現在を生きております。
・・・さて、
予想的中。
しょっぱなから需要のない話がすごく長くなってしまいました。
近況や、今後の活動は、次の記事からいきます。(あーあ)
記念すべき初回の投稿で、読者がほぼ0になった疑惑があるものの、せっかくなのでがんばって続けてみようと思います。
読者0人でないことを祈りつつ、今後もよろしくお願い島スね~!(寒)
最近、
「有吉イノシシ肉毎日食べてるくね?」と地元の友達にいじられてます。笑